幸せになりたい人は多い。それが何かを具体的に定義することはなかなか難しいが、私なりに「幸せ」を定義してみる。
「幸せ」とは、「自身の体と共に在るということを体感的に理解できている状態」ではないかと私は考える。
まず、情報処理能力がキャパオーバーしないよう脳が無意識に情報を取捨選択し、当たり前(普通=特に変わったところがない)ものは認識(クローズアップ)しないとすれば、産まれたときから私はこの体で在るのが当たり前なので視界に入ったとしても風景と同化し脳が体を認識できていないのではないのだろうか(痛みや身だしなみ等の一部的なものは除く)。
※ 「認識(にんしき)」とは、対象(物事や情報)の性質や状況をはっきりと見極め、正しく理解・判断することを指し、単に「知っている」という状態だけでなく、その本質や意義まで深く把握していることを意味する。
私が体を認識したのは、「物理学には「質量保存の法則」(あるいはエネルギー保存の法則)という大原則があり、宇宙にある物質の総量は、宇宙が誕生してから今日まで、増えたり減ったりしておらず形を変えているだけ」ということを知ったときである。すなわち、私の体はこの世界が始まった約138億年前から存在する何かしらで構成されていることを知った時に私の脳は「体が特別(当たり前ではない)」だと感じた、つまり体を初めて認識できたのだ。
とはいえ、私は自身の体を正しく理解できなかったが、「正しく理解することは不可能である」ということを「正しく理解」した。いつからいつまでまたどこからどこまでが私の体なのか説明できず、そもそも心臓の動きすらコントロールできないうえ、今もおこなわれているであろう細胞分裂についても把握できていないからである。
私は、「私(の体)」に産まれたのは「たまたま」だと思っている。なぜなら、自身の意思で他の体に移動することができないからである。
私が「約138億年存在しているもの」に「今」巡り会ったことを当たり前とは思えない。
自分にとって自身の体が特別だと心の底から思える(体感的理解をすること)と、「私の体ってすごいな。今、一緒に在ることができてとても幸せだな。」と思え、この世界の全てが当たり前ではないということが腑に落ちたのだ。
ただし、自身以外が「幸せ(自身の体と共に在るということを体感的に理解できている状態)」かどうか確かめる術はなく、「私の幸せ」を定義するに留まることが残念である。![]()
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