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今日は第二次世界大戦の終戦間近の話をしようと思います。
その頃私の曽祖父母は、銀座でビルの管理人をしていました。
東京は毎日のように空襲があり、警報がなると防空壕へと避難していたそうです。
当時、母は祖父母と共に浅草に住んでいましたが、浅草から東京都の西多摩地区へと疎開する事になり、空襲が激しくなる前に引っ越したそうです。
そんなある日の事ですが、銀座にて仕事をしていた曽祖父母は空襲警報を聞きます。
慌てて防空壕へと避難しようとしましたが、曽祖父は戸締りなどしてから防空壕へと向かうため、曽祖母だけ先に防空壕へと向かう事になりました。
曽祖父も遅れて防空壕へと避難しましたが、その時に防空壕が空爆に遭いました。
曽祖母と曽祖父はほんの少しの時間差で同じ防空壕に避難したのですが、そこは入り口が二つあり、それぞれ別の入り口から避難したそうです。
防空壕に着弾したのは、曽祖父がいた側の入口。
その時の爆撃で曽祖父は命を落としました。
反対側から避難した曽祖母は無事でした。
同じ防空壕に避難したのに、入口が違う事で生死が分かれてしまった2人。
曽祖母だけが助かってしまって、やるせない気持ちでいっぱいだったと思います。
先に西多摩へと疎開をした祖父と祖母は教員でした。
教員の両親に育てられた母もまた、教員という職業を選びました。
そして、西多摩で教鞭をとるようになり、同じ学校で教員をしていた父と出会いました。
東京大空襲は、曽祖父を始め多くの人々の命を奪った出来事でしたが、でも空襲がなかったら母は疎開で移住をせず、父とも出会わなかったのかも知れません。
そうなっていたら、今私はここにいないのだな…と思うと、とても複雑な気持ちになります。
戦争中の時代の人々は、ただその日その日を生きることが精一杯だったと思います。
しかしそうやって頑張って生きてくれたからこそ、今の私たちがおり、この社会があるのだと思うと、ただただ感謝しかないなと思います。
ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、おじいちゃん、おばあちゃん、どうもありがとう。